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大阪地方裁判所 昭和53年(ワ)1698号 判決 1986年5月12日

原告 藤本友吉

右訴訟代理人弁護士 木村奉明

右訴訟復代理人弁護士 西垣昭利

被告 丹生純一

右訴訟代理人弁護士 前川信夫

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は、原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  原告

1  被告は、原告に対し、金九二六万三八三七円及び内金八〇六万三八三七円に対する昭和五三年三月三一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は、被告の負担とする。

3  仮執行の宣言

二  被告

主文と同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、訴外亡藤本喜美子(大正一五年七月九日生。以下「喜美子」という。)の夫であり、被告は、肩書住所地で丹生耳鼻咽喉科医院(以下「被告医院」という。)を開業する医師である。

2(一)  喜美子は、昭和五〇年二月三日、「一〇日前から嚥下痛がある。」旨訴えて、被告医院において被告の診察を受け、被告との間で、右嚥下痛の原因を究明し、これに対し医学上適切な治療を行うことを内容とする準委任契約(以下「本件診療契約」という。)を締結した。

(二) 喜美子は、扁桃炎(診療録の記載は、急性咽喉頭炎)との診断のもとに、以後継続的に被告医院へ通院し、被告の治療を受けていたが、病状が悪化の一途を辿ったため、原告ともども被告の誤診ではないかと考え、昭和五〇年六月三〇日、大阪厚生年金病院耳鼻咽喉科で診察を受けた。その結果、喜美子は、進行した下咽喉頭癌(輪状軟骨後部癌)であることが判明し、直ちに同病院に入院したが、既に手遅れの状態であり、同五一年二月二二日、右疾病により死亡した。

3  喜美子の死亡は、左記のとおり被告の本件診療契約上の債務の不履行、そうでないとしても過失(不法行為)によるものであるから、被告は、原告に対し、これによって発生した後記4の損害を賠償しなければならない。

すなわち、医学上、癌については、発見が早ければ早いほど、手術が可能、予後も良好であり、また、X線治療で全治する可能性も高いとされている。下咽頭癌についても、同様であって、その五年粗生存率は、症度Ⅰ(腫瘍が梨状窩、輪状軟骨後部又は下咽頭後壁のいずれかのみに限定されて周囲の組織に固着しておらず、頸部リンパ節その他の場所へ遠隔転移していない段階)で八三パーセント、症度Ⅱ(腫瘍が梨状窩、輪状後部又は下咽頭後壁の一を超えて広がっているが、頸部リンパ節その他の場所へ遠隔転移していない段階)で四一パーセント、症度Ⅲ(原発巣における腫瘍の広がりいかんにかかわらず、腫瘍が頸部リンパ節へ転移しているが、触知して可動性があり、しかも他に遠隔転移していない段階)で二五パーセント、症度Ⅳ(原発巣における腫瘍の広がりいかんにかかわらず、腫瘍が頸部リンパ節へ転移しており、触知すると固定性があるが、他に遠隔転移していないか、又は頸部リンパ節への転移の有無を問わず、腫瘍が遠隔転移している段階)で五パーセントであったとの報告も存在する。従って、医師は、患者に癌の発生を疑うべき症候を見出だしたときは、直ちに、当該症候が癌によるものであるか否かを鑑別診断するため必要な診察又は検査を実施すべき(当該医師がこれを自ら実施できないときは、実施できる他の医療機関に転送すべき)義務を、当該患者に対し負っているものである。

これを本件についてみるに、

(一) 一般的に、患者が異物感、嚥下痛、耳痛、嚥下困難等の症候を訴える症例については、ごく初期には間接喉頭鏡検査による患部直接視認の手段では発見が困難であるという事情もあるから、まず、下咽頭癌(女性の場合には、その中でも、本件の輪状軟骨後部癌)の発生を疑い、その判定に必要な診察及び検査、すなわち、貧血及び嚥下障害の病歴、甲状線疾患、糖尿病、口内炎等の合併症の有無、食事習慣及び食事内容等いわゆるプラマー・ビンソン(PIummer-Vinson)症候群(鉄欠乏性貧血、嚥下困難、口内炎、口角炎、口腔・咽頭粘膜の萎縮、舌炎、匙状爪、胃酸欠乏、鼓腸、消化不良等が慢性に経過する症候群)に関係する症候を知るための問診を行い、視診により、顔面、皮膚の栄養状態、貧血又は浮腫の有無、頭髪の状況、口腔粘膜の貧血又は乾燥の有無、舌が赤く平滑になっているか否か等につき調査し、触診により、甲状線の突出の程度及び左右差、咽頭の左右への運動の程度、甲状軟骨の輪郭、下骨甲状線の左右差を調査し、また、間接喉頭鏡により、梨状窩の唾液蓄積の有無並びに披裂部の浮腫病変の有無及び運動量の左右差を検査し、その際、下咽頭に喉頭綿棒を挿入して血液の付着の有無を観察し、更に、食道鏡検査による組織切片の採取及び癌の確認、を行うべきものとされている。

(二) そして、喜美子は、昭和五〇年二月三日の初診時に、嚥下痛を訴えているのであるから、被告は、この時点で、当然下咽頭癌(殊に輪状軟骨後部癌)の発生を疑い、直ちに右(一)の診察等の措置をとるべきであったのに、漫然、これを怠り、短時間の診察を行っただけであるから、輪状軟骨後部癌を扁桃炎と誤認したものである。

(三) 仮に被告が喜美子を初診時に扁桃炎と診断した点に債務不履行又は過失がなかったとしても、同女が昭和五〇年二月三日から一八日までの間ほとんど毎日のように被告医院に通院した後、同年三月七日再び被告医院を訪れ、被告に対し、初診時におけると同様の症候を訴えているのであるから、被告は、扁桃炎としての治療が効を奏さなかったものとして、この時点で、下咽頭癌(殊に輪状軟骨後部癌)の発生を疑い、直ちに右(一)の診察等の措置をとるべきであったのに、漫然、これを怠り、なお扁桃炎としての治療を継続したものである。

(四) 仮に右(二)又は(三)が認められないとしても、喜美子は、昭和五〇年二月三日以降、同月一九日から同年三月六日までの間及び休診日を除きほとんど毎日被告医院に通院していたが、これは、扁桃炎では考えられない通院状況であるし、喜美子は、更に、同年四月末ころから食欲が減退し、五月になると、固い食物を摂取できず、飲料も誤嚥によりむせて吐く状態となり、同月一〇日ころからは中に血液の入った膿のような物を出すようになっていた(このような状況については、原告が被告に対し、同月半ば、電話で報告している。)のであるから、被告は、遅くとも同月以降の時点で、下咽頭癌(殊に輪状軟骨後部癌)の発生を疑い、直ちに右(一)の診察等の措置をとるべきであったのに、漫然、これを怠り、更に扁桃炎としての治療を継続したものである。

なお、喜美子の下咽頭癌が比較的進行の早いものであったことからすれば、右の時点で発見されたとしても救命の可能性は十分にあったものと考えられる。

4(一)  喜美子は、昭和五〇年二月三日の初診当時四八歳の健康な女性で、同四三年からパチンコ店店員として勤務し、同五〇年四月から六月までの間においては毎月金九万六〇〇〇円(一日当り平均賃金三一六五円)の収入を得ていたものであり、同女の就労可能年数は死亡時から一八年間、生活費は収入の三割と考えられるから、同女の死亡による逸失利益の現価をホフマン式計算方法により年五分の割合による中間利息を控除して算定すると次のとおり金一〇一九万一五一〇円となる。

3,165×365×(1-0.3)×12,603=10,191,510

(二) 喜美子は、死亡前半年余りの間、癌特有の苦痛に苛まれていたのであるから、その慰藉料としては金一五〇〇万円が相当である。

(三) 原告と喜美子との間には三人の子があるから、原告の相続分は、右(一)及び(二)の合計額金二五一九万一五一〇円の三分の一である金八三九万七一七〇円となる。

(四) 原告は、本訴の提起及び追行を原告代理人弁護士に依頼し、金一二〇万円の報酬を支払うことを約した。

(五) そして、原告及びその子らは、被告から、見舞金として金一〇〇万円の支払を受けているので、原告が被告に対して支払を求め得るのは、その三分の一に相当する額を原告の前記相続分金八三九万七一七〇円から控除した残額金八〇六万三八三七円と弁護士費用金一二〇万円の合計金九二六万三八三七円となる。

よって、原告は、被告に対し、主位的に債務不履行、予備的に不法行為による損害賠償として、金九二六万三八三七円及びこれに対する弁済期を経過した後であり、本訴状送達の翌日である昭和五三年三月三一日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否並びに債務不履行責任及び不法行為責任の存否に関する被告の主張

1  請求原因1(当事者)の事実は認める。

2  同2につき

(一) (本件診療契約の締結)の事実は認める。

(二) (喜美子の死亡等)の事実のうち、喜美子が、扁桃炎(診療録の記載は、急性咽喉頭炎)との診断のもとに、初診以後昭和五〇年二月一八日まで、及び同年三月七日から六月二七日までの間、被告医院へ通院し、被告の治療を受けていたことは認めるが、喜美子の病状が悪化の一途を辿ったことは否認し、その余は知らない。

3  同3(被告の責任)につき

医学上、癌については、発見が早ければ早いほど、手術が可能であり、予後も良好であるとされていることは、一般論として認めるが、下咽頭癌については、初期のうちに治療が開始されても、予後はおおむね不良であるとされている。またX線治療で全治する可能性も高いとされているとの点は、否認する(癌の種類あるいは個々の症例によって異なり、一般化することはできない。)。

被告に本件診療契約上の債務不履行又は過失があったとの主張は、争う。

4  同4(損害の発生)のうち、被告が原告に対し金一〇〇万円を支払ったことは認めるが、その余は争う。

5  被告の喜美子に対する診療の経過は、次のとおりである。

(一) 被告は、喜美子が、昭和五〇年二月三日、一〇日ほど前から嚥下痛がある旨訴えて被告医院に来院したので、まず視診したところ、左扁桃部に膿栓の存在を認めることができ、更に間接喉頭鏡により咽喉頭部を詳しく検査したところ、声帯の運動は良好であり、右膿栓のほか特段の異常を認めることができなかった。そのため、被告は、喜美子を、扁桃部膿栓に基づく扁桃炎(診療録には、より広い概念である咽喉頭炎と記載した。)と診断し、同女の嚥下痛もこれによるものと判断して、抗生物質及び鎮痛消炎剤を投与することとし、更に引き続き通院させて吸入及びネブライザー等の治療を継続していたが、同女は、同月一八日以降、一旦通院を中止した。

(二) その後、喜美子は、昭和五〇年三月七日、「痛みがなくなり一旦回復したので通院を中止したが、また少し痛みが再発してきたので来院した。」旨述べて被告医院に来院したので、被告が間接喉頭鏡等により診察したところ、右(一)とほとんど同様の状態であったため、同一の診断のもとに再び通院を指示して従前どおりの治療を再開した。

(三) ところが、喜美子が、昭和五〇年六月一〇日になって、嚥下困難及び体重減少を訴えたので、被告は、喉より下の食道あるいは胃に癌の発生を疑い、直ちに同女を内藤病院に紹介してレントゲン検査を受けさせたところ、同月一九日、同病院から、食道及び胃に癌は認められず、「喉頭部にも特に悪性な像は考えにくいが、気管支にバリウムを多量誤嚥しているので、耳鼻科的に喉頭部に何か麻痺を来す原因があるかどうか」との回答を得た。その後、被告は、内藤病院撮影の喜美子のレントゲンフイルムを検討したが、咽喉頭部の癌を疑うべき所見を認めることはできなかった。ただ、被告は、気管へのバリウム誤嚥の事実から、間接喉頭鏡の可視範囲外の食道頸部内側における癌の発生を疑い、喜美子に対し、同日から同月二七日までの間通院の都度、大阪赤十字病院を紹介するからレントゲン検査と食道鏡検査を受けるよう勧めたが、同女は、大分嚥下が楽になってきたとか、検査は嫌だと主張してこれに応ぜず、同月二七日を最後に通院しなくなった。

なお、被告は、喜美子に対し、同女が通院する度に、間接鏡により同女の咽喉頭部の検査を実施していたが、終始その可視範囲内に癌の発生を疑うべき所見を認めることはできなかった。

6  ところで、患者が嚥下痛を訴える場合、その原因としては、風邪による感染等による咽喉頭炎が圧倒的に多く、神経症(殊に、女性の場合には、ヒステリー性ノイローゼ)がこれに次ぐ。もちろん、癌が原因であることもないわけではないが、通常の咽喉頭癌の場合には、間接喉頭鏡による検査で発見することが可能である。しかし、喜美子の罹患した輪状軟骨後部癌は、老練な耳鼻咽喉科専門医ですら、一生に一度遭遇するかしないかという極めて稀なもので、しかも、後記のとおり、その発見は、極めて困難である。そして、本件においては、初診時、喜美子の左扇桃部に膿栓が認められ、被告の治療により一旦治癒したものの、再び同じ場所に膿栓が現われたこと、間接喉頭鏡による検査では、右以外に喜美子の咽喉頭部に異常な所見は認められず、却って声帯の運動が活発であるという咽喉頭癌の発生を否定する方向に働く所見が認められたこと等の事情があったのであるから、このような場合、特段の徴候が現われない限り、癌の発生は疑われず、扁桃炎(咽喉頭炎)との診断がなされるのが一般であり、更に食道鏡検査やレントゲン検査まで実施することはなされていない。従って被告が喜美子の嚥下痛の原因を扁桃部感染による慢性の扁桃炎(咽喉頭炎)と診断したことは、医学常識に適ったものである。なお、扁桃炎は、慢性化すると相当長期間継続するもので、これにより嚥下痛が数か月続くこともあるから、喜美子が毎日のように吸入及びネブライザーのため通院していたにもかかわらず、嚥下痛が治まらなかったとしても、特異なことではない。

7  また、仮に、被告が、喜美子に対し、同女の被告医院への通院中原告の主張するような諸検査を実施したとしても、同女の癌を発見することは、不可能であった。

すなわち、輪状軟骨後部癌は、下咽頭の食道入口のすぐ内側(頸部食道)の裏側一ないし二センチメートル付近に発生するので、間接喉頭鏡検査によってはもとより、食道透視、食道鏡検査(これは、食道透視により癌発生の疑いが出て初めて行われるものである。)によっても通常発見することができない(食道入口部は、気管と隣接しているので通常の状態では閉鎖されているところ、食道鏡検査は、唾液の嚥下により同部が開く一〇分の数秒間の間隙を縫って食道鏡の先端を同部に挿入しなければならないため、右先端が二、三センチ中に入ってしまうのを避けられない。)からである。そのため、本件においては、大阪厚生年金病院ですら、初診時である昭和五〇年六月三〇日、喜美子を反回神経麻痺及び気管支炎と診断したもので、しかも、同年七月七日耳鼻咽喉科から内科に転送し、同月八日実施した食道透視によっても癌を発見することができず、内科において気管支肺炎との診断の下に治療中、たまたまこれを前提としてなされた喀痰検査で癌細胞が発見されたため、耳鼻咽喉科に転送し、同月一六日にようやく下咽頭癌との診断に至ったものである。のみならず、喜美子の喉頭披裂部(以下「披裂部」という。)は、同年六月三〇日には単に動きがにぶいだけの状態であったのに、同年七月七日には早くも浮腫状を呈して動きがなくなり、同月一六日には腫瘍となっているのであって、このような癌の急速な進行(これが、下咽頭癌の特徴である。)の事実からすれば、被告の治療の段階では、未だ癌の症候が顕在化しておらず、たとえ原告主張のような検査を行ったとしても、同女の癌を発見することはできなかったものである。

三  原告の反論

臨床医学における診断の過程は、極めて動的、試行錯誤的なものである。すなわち、医師は、症候から病名(病因)を考えるのであるが、当初から直ちに病名が判明することは稀であって、むしろ、複数の可能性のある病名を想定し、診察及び検査と治療を段階を追って変化させながら繰り返すことにより、徐々に病名が絞り込まれていくのである。本件において、被告は、当初、扁桃炎という病名を想定し、これに応じた治療を行ったもののようであるが、昭和五〇年三月七日の時点では、その治療によって喜美子の症状が改善しないことが判明し、その後はむしろ悪化し、遅くとも同年五月に入った時点では、新たな症候も発現しているのであるから、同年三月七日以降、原告主張のような診察及び検査を順次実施し、可能性のある病名を絞る作業を当然進めなければならなかった。そのような作業を行いさえすれば、早期発見が困難とされる下咽頭癌の発生を容易に疑い、早期に発見、治療することができた筈である。

また、被告は、同年六月一〇日、喉から下の食道あるいは胃に癌の発生を疑い、レントゲン検査を受けさせた旨主張するが、右検査の対象は、主として胃、せいぜいそこから下部食道までにすぎないから、下咽頭癌を疑ってなされたものとはいえない。かつ、時期的にも余りに遅きに失した措置というべきである。

第三証拠《省略》

理由

一  請求原因1(当事者)及び同2(一)(本件診療契約の締結)の事実は、いずれも当事者間に争いがない。

二  喜美子が、昭和五〇年二月三日、「一〇日前から嚥下痛がある。」旨訴えて、被告医院において被告の診察を受けたことは、前示のとおりであり、喜美子が、扁桃炎(診療録の記載は、急性咽喉炎)との診断のもとに、以後同月一八日まで、及び同年三月七日から六月二七日までの間、被告医院へ通院し、被告の治療を受けていたことは、当事者間に争いがなく、これらの事実に、《証拠省略》を総合すれば、被告医院における被告の喜美子に対する診療の経過及び同女の転帰につき、次の事実が認められる。

1  被告は、喜美子が、昭和五〇年二月三日、被告医院に来院し、一〇日前から嚥下痛がある旨訴えたので、まず舌圧子で舌を押えながら、肉眼で、口腔粘膜など口腔内の組織と発声をさせた状態で見える範囲の咽頭部を視診し、次に間接喉頭鏡を用いて更に下方の咽頭部及び喉頭を視診した。その結果、左扁桃部に膿栓の存在が認められたが、その余の組織に異常を認めることはできず、声帯もよく動いていたので、被告は、喜美子を扁桃部膿栓に基づく急性扁桃炎(ただし、診療録には、より広い概念である咽喉頭炎と記載した。)であり、嚥下痛もこれによるものと診断して、同女に対し、その咽頭部にルゴールを塗布し、蒸気吸入及びネブライザー(抗生物質及びステロイドホルモンを混合した液を喉へ噴霧する処置)等を行うという一連の処置(以下「咽喉頭部への処置」という。)をしたうえ、抗生物質(ネオマイゾン)、鎮痛消炎剤(ボルタレン)及び含嗽剤(アズレン)を処方し、当分継続して通院するよう指示した。

2  被告は、その後昭和五〇年二月四ないし六、八、一〇、一二、一四、一五、一七及び一八日、通院して来た喜美子に対し、初診時におけると同様間接喉頭鏡及び肉眼で咽喉頭部及び口腔内を視診するとともに、咽喉頭部への処置を行い、前示1の抗生物質等の薬剤が切れることのないよう適宜処方していたところ、同月一八日過ぎころには、喜美子の扁桃炎は、一旦、軽快し、同女は、通院を中止した。

3  喜美子は、その後昭和五〇年三月七日、再び被告医院に来院したので、被告が間接喉頭鏡及び肉眼で咽喉頭部及び口腔内を視診したところ、従前と同様、左扁桃部に膿栓の存在が認められたほかは異常がなかった。そのため、被告は、従前と同様、喜美子を急性扁桃炎と診断して、同女に対し、咽喉頭部への処置を行うとともに、消炎酵素剤(ノイチーム)及び含嗽剤(アズレン)を処方した。そして、被告は、同月八、一〇ないし一二日、通院して来た喜美子に対し、間接喉頭鏡及び肉眼で咽喉頭部及び口腔内を視診するとともに、咽喉頭部への処置を行い、右各薬剤が切れることのないよう適宜処方していた。ところが、同月一三日、同女において再び嚥下痛を訴え、初診時と同様の症状に戻ったため、慢性扁桃炎を疑い、右各薬剤の処方のうち、ノイチームを前示ネオマイゾン及びボルタレンに変更したうえ、同月一四日以降同月中に一二日間、同年四月中に二〇日間、同年五月中に一八日間、同年六月二日から九日までの間に六日間、それぞれ通院治療を行った。右通院治療の内容は、間接喉頭鏡及び肉眼による咽喉頭部及び口腔内の視診、咽喉頭部への処置並びに前記の投薬(ただし、同年五月二八日以降、抗生物質の長期連用による肝臓障害発生の懸念から、ネオマイゾンに代えて、ノイチームが処方された。)であったが、同年五月二日のみ、一時的に嚥下痛が強くなり、発熱があったことから、抗生物質(セファメジン)の注射がなされ、これにより同日前の状態に戻った。

なお、同月に入って、喜美子には、咳や痰が出ていたが、同女からの訴えもなく、被告は、直接このことを覚知していなかった。

4  ところが、昭和五〇年六月一〇日の診察の際、喜美子が「嚥下困難があって十分食事が摂れないので体重が減った。」旨訴え、かつ、被告の間接喉頭鏡及び肉眼による咽喉頭部及び口腔内の視診によれば、直接観察できるこれらの部分の状態は従前と同様であり、右症候の原因となるような異常がなかったことから、被告は、右部分より下の部位に原因となる病変があるものと考え、同女に対し、一旦被告がかつて勤務していた大阪赤十字病院で精密検査を受けるよう指示したが、同女から「病院が遠く、仕事も休みたくない」旨訴えられたので、「嚥下困難とるい痩があるので、内科的にレントゲン検査をして欲しい」旨の記載のある名刺(以下「本件名刺」という。)を交付して、近隣の内藤病院へ行くよう指示した。

5  喜美子は、昭和五〇年六月一七日、内藤病院へ赴き、訴外医師内藤一馬(以下「内藤医師」という。)に本件名刺を示した。内藤医師は、右名刺の記載から、喜美子の食道から胃を経て十二指腸に至るまでの部位についてレントゲン検査(透視)を行うべきであると判断し、これらの部位について同病院において一般的に行われている撮影方法(食道については、首が横に向いた被検者を直立させた透視台を三〇度傾けて、バリウムを嚥下した直後の像とバリウムが落下して進んだあとの像を一枚のフイルムを二分割して撮影した後、体位を変えながら、胃について五枚、胃の幽門部及び十二指腸について一枚のフイルムを四分割して撮影する方法)によりながら、なお、嚥下困難があるということから、食道については余分に一枚フイルムを二分割して撮影した(その結果、食道については、上部食道と下部食道各二画面が得られた。)。その際、喜美子は、バリウムを気管支の方へ誤嚥した。

内藤医師は、前記の検査の結果として、萎縮性胃炎、十二指腸球部に斑痕性の十二指腸潰瘍の所見があるが、食道には著変がないとしたうえ、バリウムを気管支の方へ多量に誤嚥したことを指摘し、レントゲンでは喉頭部には特に悪性の像は考えにくいが、耳鼻科的に麻痺を来す原因があるかどうか検討して欲しい旨を記載した被告宛の書面を作成し、右撮影にかかるレントゲン写真とともに、喜美子に託した。

なお、内藤医師は、喜美子につき、レントゲン検査と併せて肝機能検査(血液検査)も行ったが、とくに異常な所見を見出だすことはできなかった。

6  被告は、昭和五〇年六月一九日、喜美子から前示内藤医師作成の書面及びレントゲン写真を受領し、同女がバリウムを気管支へ誤嚥していることから、食道の入口に癌の発生を疑い、同女に対し、再度、大阪赤十字病院で検査を受けるよう指示したが、同女は、そのうちに行くと答えていただけであり、被告は、その後同月二七日まで毎日のように通院して来る同女に対し、その都度、右の再検査を受けるよう指示したが、同女は、これに応じなかった。

7  喜美子は、被告に対し、昭和五〇年六月一〇日ころからは水を飲んでもむせると訴えていたところ、夫である原告も、同女の治療が長期化し、嚥下困難、体重減少といった新しい症状も出てきたことから、被告に対し、同月二七日、電話で、同女が癌ではないかとの照会をした。これに対し、被告は、喜美子に対し通院の度に間接喉頭鏡及び肉眼で咽喉頭部及び口腔内を視診していたが、終始、声帯がよく動いており、披裂部にも異常がなく、左扁桃部の膿栓以外に異常を視認することができなかったことから、「喉の見える範囲では悪性のものは見つからないが、それ以外に何かあることは考えられる。」旨回答したところ、同女は、同日限り、被告医院に通院しなくなった。

8  喜美子は、その後昭和五〇年六月三〇日、食物を摂るとむせ、(誤嚥)、水も飲みにくいこと、食物の停滞感があること、嚥下痛及び咽頭痛を訴えて、大阪厚生年金病院耳鼻咽喉科で受診した。当時同病院の耳鼻咽喉科医師であった訴外難波仁(以下「難波医師」という。)は、間接喉頭鏡により喜美子の咽喉頭部を視診したところ、披装部左側の動きが不良であり、喉頭部に痰がたまっていたが、腫瘍の存在は認められなかったので、反回神経麻痺と診断したうえで、同女に対し、胸部及び食道のレントゲン検査、血液検査及び尿検査を受けるよう指示した。喜美子は、同年七月七日、再度右耳鼻咽喉科で診察を受けたところ、披裂部左側には動きがなく、同所に浮腫の存在が認められ、甲状軟骨部に強い圧痛があり、痰も出ていたが、右の胸部レントゲン検査で右肺下野に陰影が出ていたため、同女は、右耳鼻咽喉科から同病院の内科へ移され、気管支肺炎の疑いのもとに、同月一二日、検査のため、内科へ入院した。そして、喜美子の喀痰検査で血痰が観察され、その細胞診でパペニコロ五度扁平上皮癌が発見されたため、一時肺癌の発生も疑われたが、食道透視の際にバリウムを気管支の方へ誤嚥したこと、喉頭痛及び嗄声があること、並びに胸部の前示陰影が原発性のものと考え難いことなどから、同月一六日、同女は、内科から耳鼻咽喉科に戻された。同日、難波医師は、喜美子の咽喉頭部を間接喉頭鏡で視診した結果、披裂部左側に腫瘍を、また、左頸部リンパ節に転移したとみられる腫瘍を発見したため、同女を下咽頭癌(輪状軟骨後部癌)と診断した。

その後、喜美子は、同病院で入院治療を受けていたが(なお、コバルト照射により、同女の腫瘍が一時的に消失してきたので、難波医師は、癌の摘出手術を行うことを勧めたが、原告は、これを拒絶した。)、同五一年二月二二日、下咽頭に発生していた腫瘍から大出血があり、多量の血液が同女の気管内へ流下したため、窒息死した。以上の事実が認められ(る。)《証拠判断省略》

三  《証拠省略》を総合すれば、次の事実が認められる。

1  一般に、下咽頭癌は、その発生部位により、梨状窩癌、輪状軟骨後部癌、下咽頭後壁癌の三種に分類されており、梨状窩癌は男性に、輪状軟骨後部癌は女性(殊に、五〇歳台を中心に、四〇歳台から六〇歳台にかけてが多い。)に特異的に発生するとされている。下咽頭癌の発生数は必ずしも多くなく、昭和五〇年までに耳鼻咽喉科専門医として約一〇年(大阪赤十字病院で勤務医として約五年、開業医として約五年)の経験を有していた被告についても、下咽頭癌の症例の経験は過去に一例しかなかった。

下咽頭癌の治療方法としては、手術又はこれと術前の放射線照射の併用が有効であるとされているが、早期発見が困難であり、かつ、極めて転移しやすいことから、予後は不良で、その五年粗生存率は三〇パーセントにも満たない。ただし、早期に発見できたときは、治療成績がかなり向上し、例えば、腫瘍が梨状窩、輪状軟骨後部又は下咽頭後壁のいずれかのみに限定されて周囲の組織に固着しておらず、他に転移もしていない場合は八三パーセント、腫瘍が梨状窩、輪状軟骨後部又は下咽頭後壁の一を超えて広がっているが、他に転移していない場合は四一パーセントであったとの報告もある。

2  下咽頭癌の初期症候は、多く、喉の異常感ないし異物感、軽い嚥下痛(これらは、必ず一定の部位に感じること、嚥下痛は、しばしば耳に放散して関連痛を訴えることが特徴とされている。)に始まるが、嚥下圧が加わるため、嚥下障害がない。また、唾液が粘くなり、口臭、血痰を訴える。

そして、腫瘍が喉頭に進むと、嗄声、喘鳴、呼吸困難を訴えるようになり、更に進行すると、嚥下困難、嚥下不能の症状も出現する。輪状軟骨後部癌の場合には、腫瘍は、まず上方に進むため、披裂部、声帯の動きが悪くなり、また披裂部に浮腫を生じさせるが、下方、側方にも進み、前方の甲状線にも侵潤するため、甲状線、気管が膨隆し、喉頭の可動性が失われる。

なお、輪状軟骨後部癌は、その前駆症候として、プラマー・ビンソン(Plummer-Vinson)症候群(鉄欠乏性嚥下困難―鉄欠乏性貧血、嚥下困難、口内炎、口角炎、口腔咽頭粘膜の萎縮、舌炎、起伏爪、胃酸欠乏、鼓腸、消化不良などが慢性に経過する症候群―閉経期前後の女性にみられ、その患者は、比較的小柄で頭髪は薄く、皮膚が乾燥気味で、顔面皮膚・口腔粘膜が貧血気味で乾燥し、赤い平らな舌をもっていること、高倉水炭素、低たん白の低カロリー食を摂っており、固形物が通りにくいので、半流動物を小口で嚥下していることなどの特徴をもっている。また、この症候群においては、レントゲン撮影をすると、輪状軟骨後部に網状形成―粘膜の瘢痕、線維形成―がみられるのが特徴である。)がおよそ半数の患者にみられる。

3  下咽頭癌(殊に輪状軟骨後部癌)の症候及びその前駆症候が右2のとおりのものであることから、その鑑別診断に当っては、次のような診察及び検査をすべきものとされている。

(一)  貧血及び嚥下障害の病歴、甲状腺疾患、糖尿病又は口内炎などの合併症の有無、並びに食事習慣及び食事内容につき、問診する。

(二)  肉眼で、顔面その他の部位の皮膚の栄養状態、貧血又は浮腫の有無、頭髪の状態、口腔粘膜の貧血又は乾燥の有無、舌の状態を観察し、貧血又は甲状腺機能低下症の有無を確認する。なお、貧血については、血液検査も行う。

(三)  間接喉頭鏡で、梨状窩の唾液蓄積の有無並びに披裂部の浮腫病変の有無及び運動量の左右差を観察し、その際、下咽頭に喉頭綿棒を挿入して血液付着の有無を確認する。

(四)  甲状腺の突出の程度、喉頭の左右への運動の程度、甲状軟骨の輪郭、舌骨甲状膜及び甲状腺の左右差を触診する。

(五)  レントゲン検査は、咽喉頭部につきレントゲンテレビ等により繰返し動的に観察する方法と喉頭造影法を組み合わせて行い、肺転移の有無を知るため胸部の、また、食道癌あるいは胃癌との誤認又は重複の有無を知るため食道及び胃の撮影も必要である。

(六)  食道鏡で、腫瘍の有無を確認し、組織の切片を採取する。

しかしながら、下咽頭癌、殊に輪状軟骨後部癌の初期における診断は、一般に極めて難しいとされている。その理由としては、下咽頭癌の初期のうちは、嚥下圧によって嚥下障害の症候が隠蔽されるうえ、間接喉頭鏡で腫瘍を直接確認することは不可能であり、また、レントゲン検査も、極めて難しく、とくに腫瘍が輪状軟骨後部にとどまっている間はその診断能力は弱いとされており、更に、食道鏡検査を実施しても、食道の入口が開く一瞬の間に食道鏡を食道内に入れなければならないことから、食道鏡が一瞬のうちに輪状軟骨後部を通過するため、この部分に発生した腫瘍を初期に発見することは事実上不可能であるなど早期診断の有効な手段がないこと、しかも、下咽頭癌は、進行、転移が極めて早い(初診時に七六パーセントの症例で頸部リンパ節への転移がみられ、初診時に既に頸部リンパ節を超える転移があった患者の大部分がほぼ一年内に発症したものであったとの報告もある。)ことがあげられている。

四  前示の下咽頭癌の疾患としての特質に鑑みれば、耳鼻咽喉科医師である被告は、原告に下咽頭癌の発生を疑うべき事由があるときは、直ちに、その鑑別診断のため必要な診察及び検査を実施すべき(被告医院でこれを実施できないときは、これが可能な他の医療機関に転送すべき)本件診療契約上のないし医師として職務上当然に要求される義務を、原告に対し負っていたものと解される。

しかるところ、

1  原告は、まず、「喜美子が昭和五〇年二月三日の初診時に嚥下痛を訴えているのであるから、この時点で被告は当然下咽頭癌(殊に輪状軟骨後部癌)の発生を疑うべきであった」旨主張し、《証拠省略》(難波医師の回答書)には、「患者が嚥下障碍とか咽頭部の異常感を訴えれば、直ちに精密検査(食道透視、食道鏡検査)を実施すべきである」旨の、また、《証拠省略》(熊本大学教授佐藤武男著「咽頭癌―その基礎と臨床―」と題する書物の抜粋)には、「異物感、嚥下痛、耳痛、嚥下困難などを訴える症例に対してはまず下咽頭癌を疑ってかかるべきである。女性では輪状軟骨後部癌を考えておく」との各記載が存在する。

確かに、下咽頭癌の初期症状として軽い嚥下痛があることは前示のとおりであるが、《証拠省略》によれば、嚥下痛の原因となる疾病は、下咽頭癌のみならず、咽喉頭炎(扁桃炎を含む。)など他にも存在することが認められるから、開業医たる耳鼻咽喉科医師は、嚥下痛及びその他の所見をその時点における医療水準のもとで総合的に検討した結果、客観的にみて、患者の症状が下咽頭癌によるものではないと合理的に説明することができる場合を除き特段の事情がない限り、下咽頭癌の発生の可能性を考慮し、その鑑別診断のために必要な診察及び検査を実施するか、又は自らそれができないときそれが可能な医療機関を紹介すべき患者との間の診療に関する契約上の義務、あるいは医師として職務上要求される注意義務を負っているものと解するのが相当である。《証拠判断省略》

しかし、昭和五〇年二月三日の初診時における被告の肉眼及び間接喉頭鏡による診察の結果、喜美子には、自覚症状としては嚥下痛があっただけで、他覚的所見としては左扁桃部に膿栓の存在が認められたほか咽喉頭部及び口腔内に全く異常を認めることができず、声帯はよく動いていたことは、前示のとおりであり、《証拠省略》によれば、声帯の動きがよければ喉頭及び下咽頭には異常がないと一応考えてよいというのが医学上一般に説かれているところと認められるから、これらの事実に《証拠省略》を総合すれば、右初診時において、同女の嚥下痛が左扁桃部の膿栓に基づく扁桃炎によるものと診断し、下咽頭癌の発生の可能性を考慮しなかったことには合理的な理由があったものと認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。そうすると、被告が右初診時に喜美子につき下咽頭癌の発生を疑わなかったことに、本件診療契約上の債務の不履行ないし耳鼻咽喉科医師としての注意義務の懈怠があったということはできない。

2  原告は、次に、「喜美子が昭和五〇年二月三日から一八日までの間ほとんど毎日のように被告医院に通院した後、同年三月七日再び嚥下痛を訴えて通院してきたのであるから、この時点で被告は当然下咽頭癌の発生を疑うべきであった」旨主張する。

しかしながら、同年二月三日から一八日までの間の被告医院への通院治療が奏効し、喜美子の左扁桃部の膿栓及び嚥下痛は、一旦軽快したもので、同年三月七日の再診時における被告の肉眼及び間接喉頭鏡による診察の結果得られた所見も、前示初診時におけると同様、嚥下痛と左扁桃部に膿栓の存在が認められたほかは異常がないというものであったことは、前示のとおりであるから、この事実と右1で認定判断したところとを総合すれば、右再診時においても、前示初診におけると同様同女の嚥下痛が左扁桃部の膿栓に基づく扁桃炎によるものと診断し、下咽頭癌の発生の可能性を否定したことには合理的な理由があったものと認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。そうすると、被告が右再診時に喜美子につき下咽頭癌の発生を疑わなかったことに、本件診療契約上の債務の不履行ないし耳鼻咽喉科医師として職務上要求される注意義務の懈怠があったということもできない。

3  原告は、更に、「喜美子の症状は、長期の通院治療にもかかわらず、昭和五〇年五月以降の時点では、食欲減退、固い食物の摂取不能、血痰といった症候も出現してきたのであるから、この時点で被告は当然下咽頭癌の発生を疑うべきであった」旨主張する。

しかしながら、前示昭和五〇年三月七日審診時から同年六月九日までの間の通院の際、喜美子が訴えた自覚症状は嚥下痛のみであり、咳及び痰については被告において覚知することができず、肉眼及び間接喉頭鏡による診察によっても、他覚所見として左扁桃部に膿栓の存在が認められたほか咽喉頭部及び口腔内に全く異常を認めることができず(同年五月二日の通院の際、一時的に嚥下痛が強くなり、発熱があったが、抗生物質の注射により同日前の状態に戻っている。)、声帯はよく動いていたこと、右の左扁桃部の膿栓及び嚥下痛は被告の治療により一旦軽快したものであることは、前示のとおりであり、《証拠省略》を総合すれば、扁桃炎が治療を継続しても数か月続くこともあることが認められ、これらの事実と右2で認定判断したところを総合すると、同年五月から六月九日までの時点において、同女の嚥下痛が左扁桃部の膿栓に基づく扁桃炎(慢性)によるものと診断し、下咽頭癌の発生の可能性を否定したことには、合理的な理由があったものと認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。そうすると、被告が右五月から六月九日までの時点でも喜美子につき下咽頭癌の発生を疑わなかったことに、本件診療契約上の債務の不履行ないし耳鼻咽喉科医師として職務上要求される注意義務の懈怠があったということはできない。

ただ、同年六月一〇日の時点において、喜美子に体重減少及び嚥下困難との自覚症状が加わったことは、前示のとおりであり(二7)、こうした症状が扁桃炎によって生ずると説明できるだけの証拠はなく、前示三の下咽頭癌の諸症状と対照すれば、右の時点において、同女の右症状が下咽頭癌によるものではないと合理的に説明することに困難を伴うことは、否み得ない。しかしながら、同日までの肉眼及び間接喉頭鏡による診察の結果では、観察可能な範囲の咽喉頭部及び口腔内には、終始、右症状の原因となるような異常が認められず、殊に披裂部、声帯の動きに異常がなかったし、そもそも下咽頭癌の発生数自体が少ないことは、前示のとおりであるから、当初被告がまず食道から下の病変を疑ったことは、あながち不合理であるとはいえないもので、右は前示1の下咽頭癌発生の可能性を考慮し、しかるべき対応措置を講ずべきことについての特段の事情にあたるものということができる。しかし、本件においては、被告は、喜美子に対し、前示のとおり、同日直ちに食道から下の部分の撮影を目的とするレントゲン検査の指示を行い、同月一七日に右検査を受けて同月一九日に検査結果を持ち帰った同女に対し、その結果から食道入口部付近に癌の発生を疑い、即日大阪赤十字病院で更に検査を受けるよう指示しているのであるから、客観的にみて下咽頭癌の発生の疑いが生じた時から遅滞なく前示の本件診療契約上あるいは耳鼻咽喉科医師として職務上要求される措置をとったものと認めるに十分である(まして、本件においては、前示三の同女の病状の経過及び《証拠省略》を総合すれば、同女の下咽頭癌は、同月三〇日ころから急速に進行を始めたものと認められるのであり、右九日の遅れが、同女のその後の治療の可否、程度について何らかの具体的な影響を与えたと認めるに足りる証拠もない。)。いずれにせよ、原告の前記主張は採用することができない。

五  以上の次第で、被告には原告主張の本件診療契約上の債務不履行ないし不法行為に該当する事実は認められず、原告の請求は、その余の点を判断するまでもなく理由がないから、これを棄却することとし、なお、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 戸根住夫 裁判官奥田隆文、同鍬田則仁は、いずれも転補のため、署名押印することができない。裁判長裁判官 戸根住夫)

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